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神聖かまってちゃん『友だちを殺してまで。』レビュー

『友だちを殺してまで。』(2010/03/10発売 パーフェクトミュージック)

収録曲

①ロックンロールは鳴り止まないっ/②ぺんてる/③死にたい季節/④23歳の夏休み/⑤学校に行きたくない/⑥ゆーれいみマン/⑦ちりとり/(シークレットトラック・バイトなんかでへこたれないぞっ)

 

 記念すべき1stアルバム。とはいえここに至るまでライブやネット上のデモ音源で既に大量のレパートリーが発表されており、その中から選りすぐりの曲が選ばれている、言うなればベストアルバム的な意味合いもある作品である。

 

 そういうコンセプトで作られただけあってどの曲も初期かまってちゃんの代表曲となっているが、なんといっても①が圧倒的。この曲が堂々と1曲目に置かれていることで、挑戦的なバンド名やアルバム名、アートワーク(裏面ジャケットがちょっと怖い)から受ける印象からは程遠い、単に過激さや奇を衒っただけのバンドではない良質なソングメーカーであることを示している。それと同時に、ここで歌われているのは、ロック史の中で自分たちが名を刻む存在であること、そこで自分たちがどういう立ち位置であるかを俯瞰的に見据えていること、「遠くで近くで」とあるようにインターネットを通じてリスナーとの距離感のあり方に革新をもたらすこと等、神聖かまってちゃんという存在の何たるかを明確に示した宣言である。そのアティチュードは単なる初期衝動という言葉では表せない聡明さと、どんな受け手の存在も念頭に置いている覚悟の強さ、そして優しさをたたえている。

 

 ②も①と同じくピアノの音が印象的な、屈指の美メロ曲。歌詞の内容は①よりもグッと内省的になっており、むしろこちらが本懐といったところだろう。「放課後はまた蛙道/ゲロげーロだぜくそがぼくは/ゲロまみれだくそがまじで/どうでもいい」という歌い出しからすでに、汚さと可愛げ、即物性と叙情性、そしてユーモアが同居する、の子特有の詞世界を味わわせてくれる。「ぺんてる」というのは彼が子供時代よく通っていた駄菓子屋の愛称らしいが、歌詞の中でそのことはハッキリ説明されてはいないため、「ぺんてるぺんてるに」という繰り返しの響きが抽象性を帯びることとなっている。このように歌詞に理屈を求めすぎないスタンスは、詞が単にメッセージの伝達ではなく音楽に寄り添った自由度の高い言葉であるという意味で、神聖かまってちゃんの音楽性を支える重要な要素であると思う。後半の語りパートから最後にかけては、リズミカルに、そしてなだれ込むようにエモーションが高まっていく、かまってちゃんの曲の中でも他に類を見ない盛り上がりである。

 

 屈指の名フレーズがギターで刻まれるイントロで幕を開ける③は、「死にたい季節」という刺激の強いタイトルとは裏腹に、ゆっくりと語りかけるように諦めの境地が優しく歌われる。「ラジカセ」というアイテム選びが特に素晴らしい。自分の音を流すための道具であり外の音を受信するための道具でもあるラジカセが「流れない」と歌う事で、多角的に孤立というものが表現されている。前半の詩がレトリックに富んだ豊かな言葉遣いであるのに対し、後半がサビと「僕は早く死にたい」の繰り返しになっていく切迫感が何とも胸を打つ。

 

 ④はこれ以降何度もリメイク・変奏されるアンセム。「23才」という年齢は、人生を順調に進めてきた人であれば皆社会人1年目を迎えているはずの年という点で意味深い。歌詞中では無職・ニートを直接的に思わせる言葉が一切出てこないにもかかわらず、明らかにそういった状況の人物が歌っていることを否が応でも想起させる詞は、代表曲になるのも当然の完成度。Cメロで照れ隠しのように他愛のない言葉遊びが繰り返された後、思い出したように「そういや君はどうしているのかな」と顔を覗かせる素直な切なさが泣ける。

 

 ⑤はこのアルバム唯一の、パンクらしいわかりやすい攻撃性を持った曲。ごくミニマルな歌詞の中に含まれる情報は「学校に行きたくない」「計算ドリルを返してください」の2つのみ。前者から後者への急激なズームアップによって、「学校に行きたくない」という漠然とした憂鬱と、いじめっ子に計算ドリルを盗まれるという実在感に満ちた絶望とを行き来する。かまってちゃんの攻撃性は常に、無力な嘆きとして、または自分に向けたものとして投げられる。

 

 引き続き学校を舞台にした悲惨な歌詞の⑥は、自殺願望を持つ少年がそれがなんの成果も生まないことを知りつつ結局は自殺してしまうという、⑤を上回るほどの救いのない内容である。それでいてメロディは童謡風で親しみやすかったり、「ゆーれい」という表記や「ゆーれいみマン」というダジャレ、「あげぱんでも買ってあげなさい」のくだりなど、そこはかとなくユーモアも感じさせたりもするところにこの曲の凄味がある。ラストの4行は皮肉っぽさと悲しみと美しさが最高レベルで結実した詩情あふれるフレーズで、カタルシスの極地。また、細かいところだが、「僕のことを」の一言が歌詞カードに記載されていないところに、どことなく奥ゆかしさを感じる。

 

 徐々にネガティブさを増していくゆるやかな地獄めぐりのような②~⑥を経て、アルバムのラストを飾る⑦は、ただただ純粋でプリミティブな恋の物語である。他者から疎外され、攻撃され、自己嫌悪にさいなまれてばかりの人生に、それでもかろうじて救いのようなものがあるとすれば、この曲で歌われているような感情なのではないだろうかと思わせる美しい曲。⑥の「僕のことを」と同じく、「この馬鹿野郎がー!」(聴き取りにくいけどたぶんこう言っている)や「走って」という部分などが歌詞カードには記載されていない。いっぽう歌詞カードに書かれている「僕もあなたをちりとりたいのです/奥まで/奥まで」という最後の3行は実際に歌われない。このように歌詞カードと実際の歌唱に微妙なギャップがあることで、より”ナマの感情”、”いまの感情”っぽさを生じさせている。

 

 本編からブランクを挟んで隠しトラックとして「バイトなんかでへこたれないぞっ」という曲が収録されている。おそらく実体験そのままであろうストレスフルな状況を歌った歌詞だが、全編とにかく笑える。嘆きや怒りといった感情を大事にしているの子だが、状況を客観視して可笑しみを見出すことも決して忘れない、彼の人間的魅力として重要な一面が確認できる曲である。ユーモアセンスとしてももかなり秀逸で、「やる気あります清掃します」のところは絶対笑ってしまう。このようなコミカルに振り切った曲を本編には入れず、ボーナスとして収録するバランス感覚も評価すべき点である。

 

 このアルバムの特徴として、「子ども」というキーワードが挙げられる。全7曲中5曲が明確に小学生~高校生視点の歌詞で、「ジャポニカ学習帳」「計算ドリル」「掃除当番」など象徴的な単語も登場する。例外である③と④も、前者は「知恵の林檎を今更食べても遅いから」という表現で、後者では「夏休み」という児童を思わせる単語で、成熟できなかった大人を表現している。その他、ジャケットのブランコやタイトルの「友だち」という表現も幼児性を感じさせるし、そもそもバンド名が「ちゃん」で終わることや「の子」という名前も「子ども」を連想させる。

 前述の通り、既に大量にあったレパートリーの中からCDレビューに際してベスト的に選曲したのが本作だが、そうして選ばれた曲に「子ども」の要素が多いのは興味深い。トラウマや怒り、初恋や希望といった、神聖かまってちゃんのテーマの核となる要素は、多くの人にとってもそうであるように、の子の子ども時代が源泉となって生み出されていることを伝えている。また、リスナーにとっても、神聖かまってちゃんという存在が「子ども」のイメージをまとって音楽業界に正式に現われたことの意味は大きかったであろうと思う。当時のかまってちゃんはその純粋さ、攻撃性、弱々しさ、得体の知れなさ、将来性、そしてキュートさといったあらゆる意味で、まさに「恐るべき子どもたち」だったのだろう。しかしそのイメージも、ある種彼のクレバーで冷めた「大人な」部分によって造り上げられたものでもあることがまた、神聖かまってちゃんがしばしば持つ、油断のならない両義性を感じさせてくれる。